※本記事はネタバレを含む感想記事となります。ご了解頂けた方のみ、お読みください。
6月17日(日)イオンモール岡山へレイトショーで会員様と観に行ってきました。
会員様からお誘いいただいたこの映画。タイトルのインパクトが強いですよね。
私はあまり実写映画を見ないのですが、とても気になったのでお誘いに乗っからせていただきました。
勉強カフェを閉めたあと、夕食を取っていざ鑑賞。
日曜レイトショーのためか、動員数も少なめで落ち着いて観ることが出来ました。
せっかくお誘いいただいた映画です。アウトプットしなければもったいないでしょう。ということで今回異例ながら映画のレビュー記事を書かせていただきます。
非常に複雑で考えさせられる作品だと感じました。
日頃はアニメーション映画を好むので観る前から結末が予測出来るような分かりやすい作品ばかりに触れていました。
こういう映画も全然嫌いではないのですが、観ると頭が追い付かないので疲れてしまいます…。
さて、この作品のテーマは「家族」。
血のつながらない家族が、最後には愛を確かめ合うなんてストーリーはありきたりだが、この作品はそう一筋縄では終わりません。
血のつながらない事実に加えて互いに金銭的なメリットがある事実そして犯罪から生まれた絆・愛情という事実を目の当たりにした時、自分の所属している小さな社会を「家族」と呼べるか、そんなことを問われます。
幸いにも私自身が作品の程度まで困窮したことはないため、どこまでがリアルかはっきりとはわかりませんが、舞台となる家族の貧困生活はリアルに感じました。
万引きはくせになると聞きますし、善悪で判断できるほど甘い生活状態ではないだろうと推察しました。
主人公の少年:祥太は賢い子でした。
思春期の描写から、親からの依存を離れる葛藤をする時期。
学校に行かなくても家族で行う万引きの善悪について疑念を持てるのはかなり優秀なようにも思えました。(私自身が体験したわけでもないので学校という機関がなくても案外普通にそう考えられるのかもしれない。≒性善説)
さておき、万引きや車上荒らしを悪い事だと判断し育ての親に意見したり、客観的に自分へ必要な物を見極め育ての親から離れる決心をしたり。
感情が先走る学童期では居心地の良さを選ぶ可能性もありますが、家庭に属する子供という立場ではなく、大人へ向かう一人の個人として判断を下す祥太。
育ての親から「父ちゃん」と呼ぶことを求められても、一度も呼ばず、とうとうお別れのシーンでも口にすることはありませんでした。
わかりやすいハッピーエンドを求めていた私には少々ショッキングで…。
「そこはフツー、”血は繋がってないけど、一緒にいたい!ずっと言えなかったけど父ちゃんのこと大好きなんだ!だからおじさんに戻るなんて言わないで!!”ってく言う場面では…!?」と思わず叫びたくなりました。
リアルだときっとそうもいかないのでしょう。実際大人として観た時に祥太の選択(犯罪を教えるような親から離れるという決断)は安心できる気持ちもありました。
育ての親含め鑑賞者はそんな祥太がこれから幸せな日々を歩むことを願うしかありません。大切な人との別れとはそういうものなのでしょう。
自分の大切な、それまで傍にいた人。
その人と別れる決断をした時。それまで心配させられると怒って良かった関係が、崩れます。
心配さえさせてももらえなくなり、そもそも心配するようなことを知らせてもらえない間柄へと変化します。
ただただ幸せを祈り、それまでの過ごした日々に無駄がなかったか振り返るだけ。
それでも別れたからと言って愛がないと言えるわけでもないでしょう。
誰がどこで、誰かのことを愛していようと自由です。愛が存在すれば家族なのだろうか、それではこの血のつながらない家族は一体。
実際問題家族というものに血縁がは必要十分条件ではないと考えられているのでしょうが、血縁関係というわかりやすい基準から作られたルール(法律)があることも事実です。破れば罰則され、そこに愛という測れない基準は考慮しにくくあります。されたとしてもきっと想像よりも微々たるものになるかもしれません。
愛という目に見えないものが軽んじられ、忘れがちになり、目に見える基準から判断するように迫られる現実があります。
私が一番印象に残っているのは、犯罪が明るみになった後のニュースレポーターのセリフでした。
「血縁関係のない者たちがこの家に集まり何をしようとしていたのか、謎は深まるばかりです」
確かに。よそ者から見るとそういう感想しか出ません。
多くの者がわかりやすい理由を求めるのでしょう。ビジネス、お金ほしさ、何かを守るため、寂しさを埋めるため。
この作品での理由はきっと愛を知るため。それすらも観た者が求める理由。そして私達はその愛を観ることができたから登場人物が互いに「家族」と名乗ることにも納得もできるのです。
知らない者は愛だけで納得することも難しくあります。愛の根底に血縁関係があり、切り離せないから。そしてリアルタイムで愛が発生している場面を伝えられる媒体はないから。
誰しもが好きな相手と一緒にいられるわけでもなく、かといって好きだった相手に愛情がないと判断した瞬間に別れを告げられるほどさっぱりもしていません。好きな相手に経済力があり、それに頼って生活したからといって愛情がないとは限りませんし、経済力がない状態で同居していたからといって愛情があるとは限りません。
大切な人と話をする時に楽しかったり、悲しかったり、映画を観て感動したり、つまらないと感じたり、感じていることは確かであるのに感じたことをそのまま他者へ伝えられないことは非常にもどかしくあります。それができればあれほどマスコミに叩かれなかったのでしょうか、虐待も起こらなかったのでしょうか。
家族とは一体何でしょう。大切な人という括りとも違う、血縁という括りとも違う、生活の繋がりという括りとも違う。
それに対する答えはきっと出ません。
そしてこの作品は私達に何か答えを与えてくれるようなものではありません。バッドエンドと感じる方もいればハッピーエンドと感じる方もいるでしょう。映画はフィルムに終わりがありますが、人は命が尽きるまで終わりがありません。死ぬその時まで、自分の人生がどうだったかというのはわかりませんし、わかったところで何かがあるわけでもないのでしょう。
もし、初めの問い「家族」と呼べるかに答えるとするならば、私は呼べると答えます。
そして「家族」以上に身の回りの人や、もう少し遠くの人、日本、世界が幸せになることを願いたいと思いました。全てが幸せであれるように、みんながみんなを愛し愛されるように、そんな世界になるような訴えをこの映画から受け取りました。